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23.お空へ旅立って

流産・死産・新生児死などを乗り越えるのに
それはあなたにとって意味のあることなんだ・・・的な言い回しに
私はどうしても首を傾けてしまう。

確かにあとになって振り返ってみると違う成長した自分がいて、そう言えるのだと思う。
ただ、その渦中にいた私は「死んだことに意味がある」と考えたら
Syogoは喜んでくれるのだろうかと悩んだ。

屁理屈なところのある自分勝手な私だからとは思うのだが
その言葉は理不尽なままで、なんか納得できない。
自己犠牲のような気持ちもないし、運命とは試練なのだみたいなとこがイヤだ。
もっと簡単に受け流したい。サラっと
聞く言葉は、みな生きている人の言葉で、亡くなった人からは聞けないからなのだろうか。
お空に旅立ってしまったSyogoからメッセージが届くことを期待している。
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22.病院の対応

Syogoのことがあって、いろいろな方のHPを見たりすると、様々な病院の対応の違いが気になった。
私の場合
出産した時に「おめでとう」の言葉を聞けなかったのは、今でも悲しい。
Syogoが障害児だったからなのか?それとも私の被害妄想なのか?
障害児だった場合、聞けなかったという人が多いような気がする。
生まれた子が、将来 困難な人生を歩むと思っている医者もいるかもしれない。
それならば、エールを送る気持ちで「おめでとう」と言ってもらえないだろうか。

母体の1ヶ月検診の時、先生は軽く聞いた。
「母乳の出具合はどう?」「赤ちゃんはどうしてる?」医者とは忙しい仕事だと思う。
でも、転院先に問い合わせておいてくれるような配慮がほしかった。
特に産婦人科は病院の中でも幸せな人が来ていることが多いと思う。
その中では、辛い気持ちを隠さなければいけないような気さえしてくる。
この時、なぜこの病院にはカウンセリング室のようなメンタルなケアをしてくれる
窓口(医者)はないのだろうかと、診察室の丸椅子に座りながら
孤独で、誰にも分かってもらえないような気持ちを味わいながら考えていた。

テレビで外国ドラマ「ER」を見ていると、各科の連携プレーが頻繁に出てくる。
1人の患者に対して担当Drの他にカウンセラーがついたりしている。
何か基本的なシステムの違いがあるのかもしれないが
日本の病院もいずれそうなってほしいと願っている。

それと、辛い気持ちを癒す手段として、インターネットが活躍してくれた。
しかし最初の頃は、なにをどうしていいのかさえ分からない。糸口も見つけられない。
ただただ遺骨の前で泣いている毎日だった。
今になって思うと、病院側から何か「子供を亡くした方達でつくる団体」を教えるなり
そういったことを取り上げている本を紹介するなどの対応をしてほしいと思った。

21.姉に知らせた時

隠す理由もないので、ダウン症の話をした。
第一声が「検査しなかったの?」・・・私は絶句した。ショックだった。
まさか、こんな返事がくるとは予想もしていなかった。
この言葉の意味をどう捉えたらよいのか・・・。
「検査をすればおろせたのに」ってこと?
「ダウン症の子は不必要」ってこと?
この拒絶された言葉に動揺して、思うように話が出来ない。
姉は染色体の検査結果はまだ出ていないという点に「あきらめてはダメよ!」と言ってきた。
私がどのように受け止めて、どんな気持ちで話ししているのかを察してくれない・・・この姉に
あ!私もそうだった。考える時間があれば、きっと分かってくれるはずだ。

すると今度は、こんな話をしてきた。(ちなみにこの時、姉は妊娠10W)
「先日の検診で先生に<おかしな子が生まれる>と言われたの
それに4人目だし、つわりもひどくて、今までで一番体調が悪いの
・・・それで、おろそうと思っているの」と
コレを聞いて、もう何も言えなくなった。
姉にコレまでのすべては話してこなかったけれど、不妊で悩んでいることは言っていた。
そして、ほしくてほしくて、やっと私たちのところに来てくれた赤ちゃんがダウン症だと告げたばかり・・・。

根本的にこの人とは違うのだ。
理解し合える人とは思っていない。
ただ今後、解ってもらえるように、何かできたらとは思っている。


余談だが、出生前診断について

私には今、子供がいない。
もしまた妊娠することができたなら、出生前診断(羊水検査)は行わない。
(妊娠を継続するのに必要な処置ならば行う)
なぜなら、もう受け入れ態勢というのか、心の準備はできているからだ。
(今更遅いのかもしれないが・・・。)
正直な気持ち、子供が手術をすることなどを考えると健康な方がいいと思う。
でも、もし障害があったとしても、一緒に成長していけるとも思っている。
ただ、Syogoが生きていて、また妊娠することができたなら
やらないと言い切れないような気がする。
命を選ぶようなことをしたくはないが、この場合、どちらとも言えない。

もし2人目も障害のある赤ちゃんだったら・・・。
親に遺伝的な要素があるかもと判断しても、おかしくないと思う。
それを知っていて検査を受けないのも、違うのではないかと思えてくる。
(この場合の検査とは血液検査で済むかもしれないが、詳しくは分かりません)

育児の経験も無い私では、考えが足りないとは思うのだが
ただ、よく知らない人が障害児だからおろすではなく
よく知っている人が、障害児を生むのは辛いと判断するのなら仕方ないと思う。
しかし、それ以前に世の中の人が障害を持つ人や、その親や兄弟の現状や気持ちを
理解できるようになることが先決だと思う。
出生前診断の意義とは、その子や親を何らかの危険要素から守ることだと思うから。

20.ダウン症の告知

正式に「ダウン症です」と告知をされたのは、Syogoが亡くなってから
生まれて1ヵ月後、出産した病院の小児科の担当医からダンナの携帯に連絡があった。
しかし、私がもしかして?と思ったのは産後すぐからだった。
まず、術前の説明の時に赤ちゃんと対面できると聞いていたのに
すぐに保育器に移されて、NICUに行ってしまった。
それに「おめでとう」の言葉も無いし、なんだかザワザワしている。変だな?と思った。
手術室を出る時、私の横でナースの引継ぎが行われた。
ベビーの体重や身長などの後に「ダウンジ」と聞こえた。
意識は薄かったが、その言葉だけが耳に残った。

病室に戻って、ダンナと2人になった時
「赤ちゃん見た?」「どうだった?」と聞いてみた。「小さいけど元気だったよ!」
私は先程の不安な言葉を言った。
「「ダウンジ」って聞こえたの、先生何か言ってなかった?」
「何も言ってなかったよ、手足の指も5本ずつあったし、心配ないよ!」「じゃぁ 私の聞き間違いだね」
それでも、どう間違うと「ダウン」に聞こえるのか、その夜は気になってしょうがない
とにかく、大丈夫!と自分に言い聞かせるしかなかった。

次の日ダンナと赤ちゃんに会いに行った。
確かに小さいけど、小児科の先生からは「予定日頃には退院できるでしょう」と言われ
不安な気持ちは吹っ飛んだ。

退院した日の夜、インターネットで心臓病について調べてみた。
すると偶然だと思うのだが、ほとんどがダウン症の子のケースだった。
一緒に見ていたダンナが口を開いた。
転院が決まった時、小児科の先生から「念のため、染色体の検査をします」と言われたことを教えてくれた。
私たちは、この時に覚悟をしたと思う。

ダンナが言った。「Syogoは何があってもSyogoで、2人の子供だよ!」

私は気づかされた。
自分がダウン症の子を連れていると、どんな目で見られるのだろう・・・。と、自分の事ばかり考えていた。
「ダウン症」なんて医学的な言葉で、子供が意識しているはずがない。
違う目で見ようとする周りが差別をしているのだ。その中に私がいた。
恐ろしかった。そんな自分が怖かった。
でも根っからの楽天的でおバカな私は「これは障害児の親が1度は通る道なんだ」と思うことにして
(本当は違うと思うけど・・・)
気づけた事に感謝しようと考えることにした。そしてまたダンナの言葉が蘇る

「Syogoは何があってもSyogoで、2人の子供だよ!」

まったく、その通りなのだ。

19.NICU

1646gの低体重児で生まれたSyogoは、すぐNICUに運れた。
手術室の前で待機していた主人は少しだけ見ることが出来たらしい。
私が面会したのは出産した翌日で、新入りのSyogoはガラスに面したところではなく
ちょっと奥の保育器の中で、うつ伏せで寝ていた。
もうすぐ会えるね!と話していた赤ちゃんが目の前にいて、うれしくてうれしくて
ただずっと見ていたら、看護師さんに触ってあげてください!って言われて
胸や手足にはモニターなどが付いているので、恐る恐るちいさな手の平を触りながら
「はじめまして、お母さんです」と照れながら自己紹介をした。
その翌日はガラス越しの面会。
その次の日、仰向けだった。カメラを持ち込んで写真を撮りまくり。
この頃が何も知らず、何も考えず、ただ希望溢れる最大に幸せだった時かもしれない。

18.Syogo20日間の記録

2001/9/27 17:35 1646g Syogo誕生

10/01 生後5日目 心臓に病気が見つかり転院。

病名
・大動脈縮窄
・心室内隔欠損症
・肺高血圧症

10/02 生後6日目 午前 心臓カテーテル検査 午後3時 手術
体重が1600gで小さく、人工心肺の負担を考えると
手術は2回に分けて、心内修復は体重が3~5kgになってからとの事。
この日は、大動脈再建と肺動脈バンド術。手術時間は2時間半だった。
年内には自宅で過ごせるらしい。
そして、翌日もその次の日も安定しているとの事だった。

10/05 生後8日目 術後3日目(私の退院した日) 病院からの呼び出し
心内の穴が大きい為、肺にいく血液が多くなり全身に行きわたらない。
その為のバンドも、これ以上は絞れない。
半年後の予定だった手術を今すぐに行うと聞かされる。お任せするしかない。

午後5時半 手術 心内修復 4時間後 無事成功。
穴の直径1cm 前回の動脈の位置も改善した。との事
心臓が肥大している為、胸は開けたまま、血圧安定。
尿が出始めると浮腫みも引き、胸は閉じられるらしい。

10/09 生後12日目
浮腫みが取れないので、胸を閉じることが出来ない。
心不全と腎不全を起こし始めている。腹膜かんりゅうで尿を出すようにしているが
自然に出始めないとダメらしい。
小さい体に2回の手術はダメージが大きくて、体に負担を掛けた分、回復にも時間が掛かるとの事。

10/10 生後13日目
Syogoの状態も先生たちの説明もあまり変化なし。
かなり不安になってきた。

10/11 生後14日目
安定し始めるのはいつ頃なのか?聞いてみる。
今はそれを言える状況ではないとの事。
私たちがあきらめてはいけない。がんばっているのはSyogoなのだから・・・。
応援するのみ!

10/12 生後15日目
胸部レントゲンを見ながら先生からのお話。
左肺が白くなっている。良くないらしい。
大事な時なので、がんばりましょうとの事。

10/13 生後16日目
今までの経緯など、病状説明。
心不全・腎不全に加えて、肺気腫をおこしている。
細心の注意をはらって改善されるよう様子を見ているとの事。
今が一番最悪の時で、明日からみるみる良くなるかもしれない。がんばれ!

10/14 生後17日目
看護師さんがSyogoの左手をとって
「握ってあげて」なんて、言ってくれる。
そのやさしさに、不安をおぼえる。

10/15 生後18日目
肺、両方とも進行性で悪くなっていますとの事。
あと1週間かも・・・って。

10/16 生後19日目
朝の面会時、夕方も面会してくださいとの事。
もう何も考えられない。
とにかく、がんばっているSyogoを目に焼き付けておかなければ・・・。

10/17 生後20日目 1:40 お空の天使に・・・。

17.Syogoがやってきた

Syogoのことにふれる時
やっぱりこのことは書いておきたいって事がある。

それはETした時のこと。ET後はベットで2時間ぐらい休むのだが
横になっている時、私はものすごい幸せのオーラに包まれた。
言葉では上手く言い表せないけど、目は閉じているのに、周りがとてもキラキラしていた。
何分も経っていないと思う。はっと我に返った時、赤ちゃんが来てくれた!と思った。
この事は、しばらくダンナにも言わなかった。
口に出してしまうと、あのキラキラがどこかへ行ってしまうような気がしたからだ。
あの感覚は今でもはっきりと思い出すことが出来る。
私のところへ、Syogoが来てくれた時のことを・・・。

16.帝王切開

帝王切開で悩まされた事。それは「おしっこ」である。
これはきっと私だけだと思う。だけど私はこのことで涙ぐんだ夜もあった。

出産して翌日には、導尿がはずされた。これは早い方だと思う。
介助してもらいながら、少し歩いてみる。ふらつくけど思ったより歩けた。
人間ってすごい!

しかし「おしっこ」が出ない。したくも無い。
看護師さんが聞きに来る。「どう?出た?」
入院期間があったせいで、ほとんどのナースさんとお話したことがある。
廊下であっても聞かれる「どう?出た?」だんだん憂鬱になってきた。
翌日の朝、限界らしい・・・導尿された。
その時「700も出たよ」の言葉がイヤミに聞こえるぐらい、私は落ち込んでいた。
この日の夕方、2回目の導尿の後、ある看護師さんが私に冗談を言って笑わせてくれた。
すごくリラックスさせてくれて、笑った時に自然にお腹に力を入れることを思い出させてくれた。
この人のおかげで「おしっこ」が出来るようになった。
腹筋なのである!ココが重要だ!忘れてはいけない!
(他の方には、なんの教訓にもなりませんが・・・あしからず・・・。)

15.出産

翌日<36週6日)
術前検査があり、レントゲン+心電図+血液検査を行った。
その後、いつものNST。しかしコレが良くなかった。
毎日やっていると、どの状態が良くないことを表しているのか分かってくる。
心の中で「がんばって」「元気に動いて」と言ってみたのだが
入院して1番悪い結果だろうと気づいていた。

午後、突然ダンナがやってきた。
午前中のNSTの結果が悪かった為、ダンナも一緒にエコーでチェックする。
体重も増えていないし羊水も減ってきているので、これから帝王切開で出してあげることになった。
先生はそのつもりでダンナを呼んでいる。17:00には手術室に入った。
ダンナがガッツポーズを作って「がんばれ!」と声を掛けてくれた。

手術室には担当医ともう一人産科の先生、そして小児科の先生と麻酔科の先生の計4人
とにかく緊張していて、あまり記憶がないのだけれど、手術台の巾が狭かったのを覚えている。
麻酔は「いつの間に?」て感じで、痛くなかった。胸の部分に布でお腹が見えないように仕切りがされた。
手術はすごく気持ち悪かった。吐き気とか痛みではなく、内臓を動かされてウニョウニョのゴボゴボって感じ?
とにかく半身麻酔は2度としたくないと思った。

17:35 Syogoが生まれた。先生の「おせ!おせ!」の言葉の後、「オギャ、オギャ~」と弱々しく聞こえてきた。
なんとか声は聞けたものの、すぐに小児科の先生とNICUに行ってしまった。
感動とかうれしいとかよりも、心配でたまらなかった。

病室に戻ると肩が震え始めた。
異常に緊張していたからなのか、熱が出てきて寒いからなのか?分からない。
布団を掛けて何時間か経った頃、治っていたと思う。

ダンナが赤ちゃんと対面してから病室に来てくれた。
「小さいけど、元気だったよ」の言葉を聞いて、その日は眠った。

14.入院

翌日から入院した。<36週0日>
病室は6人部屋で、4人が切迫早産、1人が妊娠中毒症。
私は妊娠中毒症ではなかったが、浮腫みがあり要注意で食事制限つき。
でも見た目、点滴もしていない私が1番軽症に思えて、なんだか申し訳ない気分だった。

初日以外はエコーも無く、楽しみと言えば午前中のNST
(ノンストレストテスト 胎児の心拍をモニタリングする)と
1日2回の心音チェックだった。コレを聞くと元気なんだなと安心できる。

入院して変わったことは、体重が1週間で3キロ落ちたこと!
この中毒症用の食事はすばらしい!と感動した。特においしかったことが!
隣のベットの中毒症の方は退院後のために、毎食 写真をとってメモをつけていた。

入院6日目、エコーをしてみると予想体重は33週のまま・・・増えていない。
先生から「このままお腹の中にいても成長できないので出してあげましょう」とのこと
「明日はどう?」って・・・覚悟しての入院だったけど、急に怖気づいてしまった。
週末だったので、明日じゃなければ3日後・・・3日後に予約を入れた。

13.妊娠後期

今にして思えばなのだが
なんとなく赤ちゃん用品をあまり買わなかったように思う。
あえて買わないと言うよりは、なんとなく買う気になれない?って感じ
病院でリストアップされているものと必要最低限の肌着や紙おむつは買ったけど
「あとは生まれてからでいいや」って思ってた。
Syogoはお空に帰ることを知っていたのかな?

33週の検診で初めて赤ちゃん小さめですねと言われた。
でも私の中では心配する程ではないのかな?という印象だった。

2週間後の35週の時、いつもよりすごく念入りに胎盤の大きさや
羊水の量などをチェックしている。両方とも良くないらしい。
予想体重(1800g)も前回と同じで増えていなかった。
いきなり「入院です」と言われて、焦ってしまった。
「このままですか?ウチにはネコがいるし・・・」と何を言っているのだろう
「今日の午後3時までに戻れなければ、明日の朝でいいですよ」先生は冷静に答えてくれる。
「入院して安静を保ち、赤ちゃんに栄養がいくようにしましょう」との事だった。

病院を出たところでダンナに電話をしようと携帯を出したら、ちょうど鳴った。
ダンナからだった・・・以心伝心てこういうことなのだろうか?
すぐ帰ってきてくれるらしい。安心した。

12.妊娠中期

つわりが全く無い私は仕事も続けていたし、本当に妊娠しているの?と
疑いたくなるような、快適な妊婦ライフを過ごしていた。

しかし、お腹が出始めるのは早く(たぶん、もともと太っていたからだと思う)
早速、色々なマタニティウエアの通販カタログを取り寄せた。
だけど・・・なんかピンとこない。
姉が何着も送ってくれたのだが、どれもサイズが合わなくてほとんど着れなかった
結局、お気に入りの無印で何着か購入し、後は手持ちの服を工夫して何とかなった。

検診を受けていた病院では「超音波ビデオ」は別予約の別料金で
6ヶ月の頃に撮ってもらった。先生もじっくりと頭から足の先まで
丁寧に説明してくれるのだが、音声が入っていないので
後から見ると、よく分からない・・・。コレにはかなりがっかりした。

11.妊娠初期

妊娠が確定して、まずは病院探しだ。
前回の時にチェックしていたバスで20分の、産科で有名な総合病院に早速見学の申し込みをした。
見学は私1人で助産婦さんが分娩室や病棟を案内してくれた。前もって聞きたいこと
(分娩費用、個室差額ベット代、検診でのエコーやビデオ、母親学級など)を
考えて来たけれど、忙しい助産婦さんの合間の案内とあってタイミングが見つからない。
ふと立ち止まり「ちょっと待ってて」と言われ、その部屋を見てみると新生児室となっている。
お見舞いの時間外だったのでカーテンは閉まっていたけど、わざわざ開けてくださって
中から赤ちゃんを抱いて出てきた。3時間前に生まれたばかりのかわいい赤ちゃん。
「抱いてみる?」って!ドキドキ恐々の手つきで抱かせていただいた。
幸せの温もりが伝わってきた・・・。

ココの病院に決めて、不妊クリニックで紹介状を書いてもらい
13週の時に3年ぶりの産婦人科の門をくぐった。

待合室には妊婦さんばかり、まだお腹も大きくなっていない私は
電車では誰も気づいてくれないこの時期に、ココでは周りから妊婦さんに
見られているのかな?とちょっとうれしい気持ちだった。

最初の妊婦検診の血液検査で風疹をやっていないので要注意と言われた。
(後から調べてみると、1度かかった人でも抗体が薄れてしまうことがあるらしい。
 予防注射では2回受ける事が望ましいらしい。)
しかしそれを聞いた時は、ちょっぴりウチの母を恨んだ。
私の母子手帳も無くしてしまう程のずぼらな母なので、すぐに疑った。
昔、母に聞いた時は確かにすべてやっていると言ったのに
二十歳の時に「はしか」になって大変な思いをしたのだ。
その時の献身的な母の介護は、今思い出すとちょっと笑える。
そんな母に文句を言いながら、人ごみに出ないように気をつけた。

そんなある日、私の姉が子供を連れて遊びに来てくれるというではないか!やっさしい!
しかし聞いてみると、3人の子供たちは風疹にかかっていなかった・・・。
さすが私の家族である・・・。姉ちゃん 頼むよぉ~!子供は特に危険なんだよぉ~!

10. 顕微授精<3回目>  2001年1月

初めての妊娠が流産という悲しい結果になり、ショックだったけれど
前向きに考えれば妊娠できるという事で、すこし自信がついた。
お空に帰ってしまった赤ちゃんは、きっとすぐに戻ってきてくれるはず!
そう信じて3回目の顕微授精に挑戦した。

3回目の顕微は最初にクリニックを訪れてから1年半が経とうとしていた。
久しぶりにクリニックに行くと待合室が広くなっている。
なにやらカウンセリング室?みたいな部屋も出来ていた。
そして今回はICSIの前に子宮鏡をやるという。
ポリープの有無、着床障害がないかどうか調べるらしい。
病院もステップアップしているし、私もがんばるぞ!という気になってきた。
子宮鏡はお手本のような子宮だねとお褒めの言葉(笑)を貰い、顕微周期に入った。

相変らずロングで注射は前回と同じ、最初の内診時右4左1。
5日後右4左3、4日後も同じ数でちょっと心配になってきた。
でも2日後に右6左6と増えたし大きさも良いので、その2日後採卵。
翌日の授精確認で採卵14個中ICSI施行10個の内7個授精
凍結精子使用チューブ1本との事。よし!予定通り!
ETをした3つの胚の分割状態は
1. 分割 8 フラグメント 15%
2. 分割 7 フラグメント 15%
3. 分割 5 フラグメント 30%
子宮内膜は15.2mmで2週間後に判定。

またまた判定は陽性だった!うゎ~ぉ やったぁ~

ちなみに私は病院の判定前に自宅で妊娠検査薬を使ってしまう。
3回とも3・4本使い、線の濃さに一喜一憂している。
3回目はET後8日目で薄い陽性、10日目は前より濃い陽性
12日目は取説で表示してある濃さで、すぐ反応がでた。

判定から1週間後タイノウが1つ確認された。
前回は見えなかった卵黄ノウも写っていた。
1週間おきに診察し、9週で母子手帳を貰ってもいいと言われ
このクリニックを卒業となる。このクリニックは不妊専門なので
後は産科のある病院に転院しなくてはならない。
笑顔で先生に「ありがとう」と言えた。

09. 流産

判定の1週間後に診察。タイノウを1つ確認した。
5週3日で予定日も教えてもらう。
そのまた1週間後、タイノウは大きくなっていなかった。
前回3.6mm、今日6mm本当は20mmぐらいになっていないとダメらしい。
さらに1週間、様子を見ることになった。
そして、やっぱり成長していない。この時点で繋留流産と診断された。
しかし手術はせず、また様子を見ることになった。
2・3日で生理の様に出血し始めますので、また病院に来てくださいとの事。
先生の言葉を疑っていたのだが、その通りになった。
病院に行って診察を受ける、完全流産と診断された。
子宮はきれいですよと言われ、うれしいのか悲しいのか・・・。
妊娠は7週で終わった。

08. 顕微授精<2回目>  2000年8月

半年後のクリニックは混んでいて、カルテの棚がいっぱいだった。
どの不妊サイトでも評判だ「この先生に巡り合えて、がんばろうと思った」等
いいことばかりらしい・・・私だけ対応が違うとも思えないので
たぶん先生との相性が悪いのだろう。
前の項にも書いたが、私はこのクリニックに不信感を持っている。
でも病院を変えられない、それは凍結精子という人質を取られているからだ。
ただ技術的には問題ないと思っているので、2回目を受けようとやってきた。

2回目だから話は早い。スケジュールの打合せをして
プラノバールとスプレキュアを購入。
今回違う点は、前回より卵の数を増やしたいという事で
hMGを300にUPして行う。
顕微周期4日目の内診で右3左5だった。
この日から注射が始まったが、前回のパーゴグリーンに比べると
今回のヒュメゴンは痛い、しかも高いときている。
痛みの方は前回からも右腕⇒右お尻⇒左お尻⇒左腕と
廻し打ち(?)をしているのに、なぜか痛いというか痛みが取れない。
5日後にパーゴグリーンに変更になったので、予算オーバーも解消されてほっとした。
採卵は予定オーバーの15個だった。そして精子チューブ2本使用し
なんとか胚分割してくれてETすることができた。
ETをした3つの胚の分割状態は
1. 分割 8 フラグメント 05~15%
2. 分割 7 フラグメント 05%以下
3. 分割 5 フラグメント 15~30%
子宮内膜は12.0mmで2週間後に判定。

なんと判定は陽性だった!うぁ~やったぁ~

07. 顕微授精<1回目>  1999年12月

いよいよ顕微周期のスタートだ。私の場合「ロング」です。
顕微授精を行う予定の生理周期の前周期から始まります。
前周期の中頃にプラノバールの服用を開始。
同周期の25日目頃からスプレキュアを開始。
そして予定周期の3・4日目に病院に行き、卵の状態を確認する。
右7左3だった。この日からhMGの注射開始。パーゴグリーン225から始まった。
今日から毎日通院だ。スプレキュアとhMGは採卵2日前まで続けられる。
そして3日おきに内診をして卵の大きさやお腹のはりを確認する。
注射の反応が良いので、この時はこのままパーゴグリーン225で進められた。
お腹が少し張ってくるのか、内診をするたびに苦しい感じがしてきた。
卵の大きさが20mm近くなると、いよいよ採卵日が決定しhCGを打つ。
hCGは前々日の21:00に打つので、当日の人数が分かる。
私1人しか来ていなかったので聞いてみるともう1人いるらしい。
注射だけ別の病院で打っている方がいるそうだ。
そして採卵当日を迎える。

当日は朝8:30頃病院に行き、10:00頃にはベットで休んでいたと思う。
実際に採卵している時間は15~30分ぐらい。
採卵自体は麻酔をしているので痛くはないが、採卵前の処置が私は痛い。
前項でお話したとおり同時進行なので、採卵後休んでいる時は
主人は家を出たかな?とか、体調大丈夫かな?なんて考えていた。
2時間ほどベットで休み、その後主人を待つ。
主人が手術室に入ったのは14:00頃だった。とにかく祈るのみ
14:40戻ってきた。見つかったそうだ!やったぁ!これで前に進める。
この時私は「もう後は私に任せて!」って気分だった。

帰りの電車で主人の痛みがピークにきたらしい。
人目を憚らず、「うっ」とか「うぉ」の言葉が漏れる。
顔がゆがんでいる・・・声を掛けても、俺に構うなって言うし
なんとか家にたどり着き、すぐ横になった。
翌日は辛そうだったが、3日後には仕事に行った。

採卵から2日後に授精確認の電話を入れる、採卵5個にICSIして分割2個。
精子は今回使用した以外、チューブ7本採取して凍結保存。
採卵から3日後に胚移植(ET)になった。

ETは腹部エコーをしながら行う。モニターを私に向けて
戻しているところを見せてくれる。痛みは全くないし、あっという間に終わる。
その後受精卵の説明があり、胚分割の状態は
1. 分割 8 フラグメント 30%以上
2. 分割 4 フラグメント 15~30%
子宮内膜は14.8mmだった。2週間後に判定です。
2週間後、高温を維持しているものの、あえなく撃沈・・・。
血を見るまではあきらめない!って思ってたけど2日後に生理が・・・。

06. 同時進行

この話は血液検査の結果を聞きに2人で行った日に聞いた。
顕微授精をするに当たって2通りあり、1つはまず精巣生検を行い
精子が見つかれば凍結して、その後顕微授精を行う。もう1つは同時に行う。
違いを聞いたところ、凍結すると「確立が低くなる」ということだった。
この当時は「確立が下がる」かもということだけで同時進行を選んでしまったが
今にして思えば危険な賭けである。しかも当日生検を先に行うと思っていたら
採卵を先にやるというではないか、前もって聞かなかった私が悪いのかもしれない
しかし病院側も説明不足だと思う。一か八かなのだ。もし精子が発見されなかったら
私は無駄な点鼻薬と注射を打ち、採卵まで受けて体に無意味な負担を掛けたことになる。
先生は事実として確立の話をしたのかもしれないが、安易に勧めるのだけはやめて欲しい。
患者はどれほど重く医者の言葉を受け止めているかを考えて欲しい。
このことで不信感を抱いているのだが、病院を変えられずにいる。
その話はまた後で・・・。

05. 顕微授精しかないと言われて

フーナーテストで精子が見当たらないと言われて、主人が登場することになる。
ここで初めて「オレか?」と考え始めたと思う。
協力的に見えた主人も、やはり二の足を踏む。
そりゃそうだ、私だってそうだったのだから。
最初は私がケースで病院に持っていった。が、結果は同じだった。
そして主人の検査をしてみると、先生の口から出た言葉は無精子症だった。
この日の帰り、私たちはほとんど口を利くことができなかった。
なんて言ってよいのか分からない。まだ分かっていないだけで
原因は私にもあるかもしれないしと言ったかもしれない。

私たちにはもう選ぶ道は無く、進める方に行くしかなかった。
病院に行かなければ主人にこんな病名をつけずに済んだのに・・・。
後悔したけれど、もう考えても始まらない。私は主人との子供がほしいのだ。
間違ってはいないと自分を励まし、顕微授精へ進んでいった。

04. 専門病院への転院  1999年6月

3ヶ月が過ぎて病院へ行っても、またクロミッドを処方されるだけだった。
この病院では解決しない。と思い始め、専門病院への転院を考える。
しかしこの決断をするのには時間が掛かった。
不妊の悩みは、病院に行ったからって解決はしないと分かり始めていた。
子供ができるまでの道程は、出口の見えない迷路のようなものだ。
だれも出口がどこにあるのか教えてくれない。
自分がどの道を通るのか考えなくてはいけない。
専門病院はワープできる入口かもしれないし、山のある険しい道かも知れないのだ。
あくまでも前向きな私は、やっぱり専門病院の道を選んでしまった。

行く病院は決めていた。開院したばかりのK公園クリニック。
夫婦二人での診療を前提にしており、HPに書かれてあった
「不妊症の治療は心のケアーを大事にして行かなければなりません」が気に入った。
早速行ってみると、期待通り不愉快なところが1つもなかった。
待合は不妊で来ている人ばかりだし、内診室も鍵のかかる個室だ。
隣の声は聞こえてくるものの診察室の声までは聞き取れない。
設備も最新式できれいだし、先生は的確でスピーディだし1人に掛ける時間も長い。
こちらから言わなくても「何か判らない所はありますか?」と
優しく聞いてくれるぐらいだ。文句のつけるところがない。
ここでがんばろうと決心した。

さて内容だが、一通りの検査などの流れの説明があり
内診で内膜が厚く、卵も17mmと排卵が近いので、主人の検査も兼ねて
次回はフーナーテストをすることになった。
ちょっと恥ずかしいけど、それを踏まえての専門病院への覚悟だ。
いまさらジタバタできるはずがない。
唯一、卵管造影検査をパスできたのはラッキーだった。

03. 卵管造影検査

内診台で造影剤を入れる器具をつけ、その上から服を着て
レントゲン室へ行けと言う。まじ?ホントらしい。
何とかやって来たレントゲン台の上で「痛い」の文字が浮かぶ。
余計に力が入る。落ち着こうとモニターを見ていた。
先生が「痛いけど我慢してね」と何度も言う。
脅しはいいから、もう早くやってくれって心境だった。
ところがまったく痛くはなかった。ラッキー! 笑顔で診察室に戻る事ができた。
余裕が出てきて、治療方針を聞いてみた。が、この日は若い先生。
次回の○○先生に聞いてくださいと言われる。ちょっとがっかり・・・。

1週間後行ってみると、今度は初老の3人目の先生だ。
さて治療方針はというと「とりあえずクロミッドで3ヶ月様子を見よう」と言われた。
この時、造影検査だけで、いきなり排卵誘発剤を処方するやり方に不信感を持ったが
先生のこの一言で消されてしまった。
「きっと赤ちゃんはできますよ!焦らずゆっくりと体を作りましょう。」
私は心が温まるのを感じ、この言葉について行こうと思った。
しかし大事な半年を棒に振ることになってしまう。

02, 初めての病院 1998年7月

30才を目前にして勇気を振り絞って行ってみた。
そこは総合病院の産婦人科、妊婦さんもいる待合でドキドキして落ち着かない。
持っていった本も読めず、トイレに行くことさえできない。
(だって、せっかくシャワーしてきたのが台無しになる)
ただひたすら呼ばれるのを待っていた。
そんな訳で、すごく緊張した初めての内診は痛かった。
先生の話は基礎体温表を見る限りでは、排卵はしているだろうとの事。
それで次回は卵管造影検査をしようと予約を入れられてしまった。
この日はとにかく緊張していたし、先生も感じ悪かったので
治療の進め方などを聞いてくる余裕もなかった。

婦人科の内診を経験して「もう恐れるものは何もない!」と思っていたのに
自宅に戻って卵管造影検査の事を調べてみると、出てくるのは「痛い」の文字ばかり。
沸いてくる恐怖心・・・行きたくない。
しかし、いずれはやらなければいけない検査らしい。
憂鬱な気持ちのまま、3日後病院へ行った。

01. もしかして、不妊?

二十歳の頃から付合っていた主人と結婚したのは28才の時
同棲期間もあり、いつ子供が出来てもOKの状態だった。
1年が過ぎた頃、すこし疑問に思い始めた。なぜできないんだろう?
気軽に子持ちの友人に話してみたら、不妊の本をくれた。
以前、その友達も悩んでいて5年目でやっとできたのだと教えてくれた。

それから色々な本を読み漁った。すぐに基礎体温も付け始めた。
それに加えて排卵の時期を調べるLHチェックも買って試してみた。
Hの後にすぐシャワーを浴びるのも止めて、腰の下に枕をひいたりもした。
さすがに逆立ちは試さなかった。
(この頃から、ネットで不妊のページも見始めていた)
それでもできない。本に載っている今出来る事はすべてやってみた。

もともと悩むことのできない私は、家でウジウジ考えていることに嫌気がさし
病院に行こうと思い始めた。
ネットで病院情報は入手していたが、どこも自宅からは遠い所ばかり
その上勤務先との通勤途中には1件もなかった。
ご近所さんの話も聞いてみる。しかしこれは良い産科の情報しか聞けなかった。
この頃は安易に考えていて、病院でタイミングを合わせてもらえばできるのではないか?
と思っていたので、結局自宅から徒歩5分の市立病院に決めた。

ここで初めて主人に病院に行くことを相談する。
これまでも協力的だったので心配はしていなかった。
案の定「いいんじゃない。」って、あまり深くは話さなかった。
大きい問題にしたくなかったから・・・。

はじめに

以前の自分のHPを見やすくブログに移しました。

8年前からの内容で、古くて参考にはなりませんが、私の経験談です。

不妊治療・流産・生後20日で亡くなった<Syogo>のことなどです。

今後も少しづつですが、バセドウ病やその後の不妊治療、双子妊娠もUPする予定です。

拙い文章ですが、興味のある方は見てください。

Appendix

プロフィール

emama

Author:emama
現在、双子育児に追われている「ema」です。よろしくお願いします。このブログでは、私が今まで経験してきた不妊治療・流産・誕生死・ダウン症・バセドウ病についての記録です。

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